昭和47年11月09日 朝の御理解



 御神訓 一、『我身は我身ならず、皆神と皇上との身とおもい知れよ。』

 御理解第三節に「神仏の宮寺、氏子の家屋敷皆神の地所、そのわけ知らず」とある、神仏の宮寺氏子の家屋敷それはどう言う意味かと言うと、一切が神のものと言う意味なんですね。一切が神様の御物と、そう言う所から分からせて頂くと、我が身は我が身ならずと言う事も意を得ておる、人間の命もやはり神様のものだと言う事、それを神の分霊とも言う訳です。
 「次にその理知らず日柄方位ばかり見て無礼致し」とある、その理を知らずに、自分の体の様に思うて、是は無礼を致しと言う事にもなる訳です、自分の体の様に思うて自分の体をいわば粗末にする。昔の御信者さん方は体に注射をしたりね、やいとをしたりと言う様な事はごく、それは神様に対する御無礼だとして、致しませんでしたね、私方の場合は達はそうでした。
 神様の体に傷を付けちゃ勿体ない相済まんとこう言う。自分の体と思う自分の生命と思うておる所から、それがどう言う事になるかと言うと、そのわけ知らずと言う事になる、その意味が分からんで神様に無礼致し御無礼になる。ですから本当のところが分からせてもらうと言う事はね、いわゆる真の信心とは本当の事が分かると言う事なんですけれども、もう本当に神様に御守護を受けておる。
 神様の御守りを受けておると言う事は、それは神様の命なんです神様のお体なのだから、神様がそれを守って下さるはずである。だから其処の所の自覚が出来た時に、神様と共に何時もあると言う事になる。神様と一つに有ると言う事、次ぎに皆神と皇上との身と思い知れよと言う所を、此処ではこの御教えは金光教で大変問題になる御教えでありまして、この御教が下さった時代には。
 やはり天皇陛下を現人神とこう申し上げておった。いわゆる天皇陛下の為ならばそれこそ身を、鴻毛の軽きに置かなければならない様に教育された、それは天皇陛下の御子と言う様な説き方をされた訳ですね、だからそれが私は本当に帰依しておればそれは間違いじゃないと思う。だから当時はそう帰依させられた訳ですね、強制的に国家と言う一つ組織の上に、そうしなければ出来なかった時代。
 今はそれが変って人間天皇と言う事になられたのですけれども。ですから金光さまの御信心させて頂く者は、私は教祖の神様がこの皇上に当たると思うですね、教祖の神様いわゆる生神金光大神に帰依をする。と言う事は金光大神の前に自分の身も心も捧げておると言う事ですからね。天地金乃神様の身と思い知らせて頂くと同時に、金光様の御信心をさせて頂く者は、教祖生き神金光大神に帰依申し上げる。
 と言う事にならなれれば本当のおかげになって来ないと言う事です。そう思わなければ、おかげにならないと、言う風に聞こえますけれども、そう言う本当な事が、解らせて頂く所からです、私は、信心の本当の喜びと言う物は頂けれると思う、信心の私は本当の喜びと言うのはね、今日も命を頂いておる、と言う事だと思うんです。ぎりぎり今日もおかげで眼がさめたと言う事は、今日も、お生かしのおかげを頂いておると言う事。それが例えば自分のものであると言う事になったら。
 それはそのその喜びと言うものは言うなら半減してしまう訳です。私は昨日御祈念中に、此処で命を頂いたと言う人達、無い命を頂いて今日もおかげで信心が続いておると言う人達の上の事をね、思わせて頂いて本当に〇〇さんあんたは今日、此処にお参りさせて頂いておると言う事だけでも、大変な素晴らしい有難い事ばい、と言うて話した事でした。〇〇さんあんたは今日生きておると言う事だけでも、頂いた言うなら命です、神様に頂いた命が今日此処におかげを頂いておると言うだけでも、有難い。
 是は例えば無い命を助けて頂いたと言う実感が、そこに出て参ります時に例えば本当な事が分かる訳です、神様に頂いた命と言う事が分かる訳です。ですからやっぱりそのそう云うおかげを頂くとです、本当な事が実感として感じられる訳ですね。私共は小さい時から何回も無い命を助けて頂いておる、だから私はいわゆる神様の前に、身を鴻毛の軽きに置けたのではなかろうかと思うのです。
 身も鴻毛の軽きと言う事は、自分と言う者を空しゅうすると言う事、そして神様のお働きに合流して、言うなら神様の手にも足にもならして頂こうと言う精神だと思う。そんなら誰でもそんなら、九死に一生と言う様な、もう本当に神様から命を頂かなければ分からないかと言うと、そうではない、そう言う人はね実感として解ると言うだけであってね。私共が段々本当な事が分からせて頂く、そうすると同じ神様に頂いた命と言う事が分かる、神様に頂いた命、だからその命を大切にしなければならない。
 お粗末にすると言う事は神様に無礼になる、其の訳を知らずに、無礼が重なる、本当に私はあの信心の喜びと言うものは今日こうやって、お生かしのおかげを頂いておると言う事にです、心の底から喜びが湧いて来る程しの信心が一番、素晴らしく尊いと思うですね。言う事ない、その事だけで。それを分からせて下さり、その事を取り次ぎ助けて下さった教祖の神様に帰依を申し上げる、帰依する。
 と言う事はその教祖の神様に命を捧げると云う事になる、その事が一番本当な事だ。そこで私共は日々その信心生活と言うものが、命を捧げ続ける生活でなからなければならない。と言う事になる。命を捧げ続ける生活。それが信心生活。それを又の言葉で表現すると奉仕の生活と言う事になる。神様え仕え奉ると言う事、奉仕の生活、人に社会に貢献する、いわゆる奉仕である、お客様に商売人が奉仕をする、お客様に捧げるのである。親は子に子は親に、家内は夫に夫は家内に捧げ合うと言う生活。
 昨日ある方がお参りになりました、御主人が何時も外え出ておられるもんですから、内の嫁は日本一だと言うてこう言われる、けれどもその息子でるところのいわゆるそこの御主人がめったに家にいないと言う。それでいわゆるその夫が妻に奉仕する事が出来ないと言う訳である、夫に妻が奉仕をする、妻が夫に奉仕をする、奉仕をし合う、拝み合うと言う事、それで私が側から見てはおられない、とお母さんが言われる訳です。
 そしてある願いをされましたら、手辺に立つと言う字を書いて女と頂いた、是は接すると言う事になりますね、手辺に立つですねえそして下に女と。それはどう言う事かと言うと、女を叩いて女を立てないて言う事、女を立てよと言う事。例えば主人が家内の顔を立てる、家内が又主人の顔を立てる、立て合うのである、拝み合うと言う事はそう言う事だと私しは思う。あなたのおかげで、いやお前のおかげで。
 是でなからにゃいかんと思う。それを立てずにそのこの手辺と言う事は、打つと言う意味だと言いますね、打つと云う事は叩くと言うですね打つ。叩いていじめておられると言う訳じゃないけれども、例えば奥さんを一人にしておくと言う事は、これは女をいじめておる事ですよね。だから女を立てる事になる、その方が女を立てる事になると、それは接すると言う事になる、接するね。いわゆる夫婦が拝み合えると言う事、おかげを頂かねばならんと言う御理解を頂いた。
 その様に例えば夫婦は接し合うと言うか、拝み合うと言うか、親子でも親子が親は子の事を願い、子は親の事を願い、願い合い致せとこう仰る、と言う事は奉仕をし合うと言う事である。私共の言わば我が身は我が身ならず、いわゆる神様の身と思い知らしてもらうと言う事、それは私共が自分と言う者を空しゅうして奉仕すると言う事、奉仕をする生活、奉仕をし合う生活、それは本当の意味で、我が身は我が身ならずと言う事を分かって来る所から、それが成されて行く。
 お互いの一番大事なもの、それはお金であったり、食べ物であったり、衣類であったりで御座いますよね。その例えば食べ物がなかったら生きて行れんのです、お金がなかったら生きて行れんのです。着物がなかったら生きて行れんのです。して見るとそう言うものは、皆んな私共の命と言う事になるんじゃないでしょうか、お米も私の命なら、着物も私共の命、食べ物も私共の命である。
 そこで私共が日々お参りをさせて頂いて、御賽銭を奉ったり、御初穂を奉ったり、お酒をお供えさせて頂いたり、お野菜のお供えさせて頂いたり、お米のお供えをさせて頂くと言う事は、とりもなおさず自分の命を捧げておる事になるのです、だからおかげを頂くのです。お金を汚い物の様に思うたり、言いますけれども、お金は私共の命である、その命を奉るのですから、例えばそれは知っても知らんでも、我が身は我が身ならずと言う所が分かったも同然の、例えば働きが起こる事が分かるでしょう。
 それを例えばそんなら私共が分からせて頂く、例えば無い命を神様のおかげで助けて頂いたと、言う実感を持っておる人ならば尚更其処ん所が分かる。頂いた命だから是から何年生きるか知らないけれども、この命を神様のお喜び頂ける事に使わせて頂こうと言う事になる、神様に頂いた命だから、神様の為に此の命をいわば奉げると言う事に成る。そう言う事が分かってですなら必ずしもそう言う特別なおかげを頂いたと言う事ではなくても、健康そのものでおかげを頂いておると言う人でもです。
 その訳が解りその訳知らず無礼をするのではなく、其の訳を知って私共が奉仕の生活をすると言う事は、本当の意味に於いて信心生活をすると言う事はです、我が身は我が身ならず皆神と皇上との身と思い知ってからの、信心生活をなさせて頂いておると言う事が分かるのです。大変難しかったですね今日の御理解は、けれどもその理を知らずに無礼をしてはなりません、だからその訳を知って、私共が奉仕の生活をすると言う事。
 捧げるそれは神様え捧げると言う事は、親に捧げ子供に捧げ、又は妻に夫に捧げ合うと言う生き方、そう言う在り方が真の信心生活だ、しかもそれが本当な事だと。神様に頂いた此の命であるから本当は神様がよいようにお使い下さいと、捧げた生活で実はあらなければならんけれども、私共はそれが出来ない。そこは我情が我欲がそうはさせませんけれどもです、せめてね。
 其処の所が分からせて頂いて言うなら、命を捧げる印に毎日の奉仕が出来る。命を捧げた印におさいせん奉らせてもらおう、お初穂も奉らせてもらおう、お米もお供えさせてもらう、是は結局自分の命に繋がるもの、それはもう自分の命なんだから、こんなに尊い事はない事になる。そのわけ知らんから社会に奉仕する事も、人類に奉仕する事もようしないで、おしまいになってしまう人達の生活と言うものはです。
 天地の御恩徳も知らず、天地の道理も分からんなりに、しまえて行く人達と信心のある者と無い者の違いがです、出来て来る、信心の有る者と無い者は親の有る子と無い子程の違いが生まれて来る。昨日は高橋さんのお母さんの導きで、久留米の寿司勝のおやじさんがお参りして来られた、お母さんはちょいちょい参って来るのです、息子と二人、けれどもお父さんは初めてです。
 此処が九月二十三日が御霊さまのお祭りですから、二十二日の日、私は用があって久留米に行って、ちょっとそこの寿司勝の前のお店で私が買物しとる所を、ひょろっとやって来てから、やあ合楽の先生が見えよる、ちよっとお店に寄って下さいと言う訳なんです、いやあ私は今日は急ぎよるからと言うたら、そんならちよっと待って下さいと言うて、沢山お寿司を作って来てくれましてお土産にことずけてくれた。
 その事から今頃記念祭にお参りしとったそうですけれども、私がお会いできなかったもんですから、初めて会った、それでそん時の事のお礼を言わせて頂くと同時にです、あの真心がですあの真心がどの様になったと思いますか、あの日は沢山なお寿司を頂いてね、実はあの霊さまの前夜にもうそれこそ、ありとあらゆるまあ仏教で言うなら、餓鬼といいますねえ、助かっていない仏達、助かっていない霊達に捧げて。
 明日の霊のお祭りがし良い様に、私はひと晩ほとんど寝られんなりに、おかげを頂きお茶やらお水やらいろんなものをお供えさせて頂いて、あのお寿司もお供えさせて頂いて、沢山の霊達が喜びましたよと言う話しをさせて頂きましたら、そのお父さんの方がです眼を輝かせてその話しを聞かれる訳です。本当に私共が死んだ先に例えばそう言う難儀な例えば、その霊魂ですね。
 霊達が有る事を知って少しは魂を清めておかなければいけないぞ、少しは本気で信心をさせて頂いとかねばいけないぞと言う意味の話しをさせて頂いたら、お母さんよりも後ろのお父さんの方が何かえらい合点しながらね、話しを聞いて下さったんですけれども、自分はそう言う事は言わばつゆ知らないけれども、沢山なお寿司のお供えをしたと言う事は、とりもなおそず自分の命をお供えさせて頂いた。
 その真心がです、例えば、あなたと親先生に食べてもらいたい、家族の者達に食べてもらいたい、だけだったろうけれどもです、それがそう言う一石を、真心を投じた事によって、その波紋は、えらい広い事になって来た。そん時の霊さま達、に皆んなお供えさせてもらえれる程しの、事になってきた、お供えと言う物は、此の様に尊いものだと言う話しをしたんです。
 真心のお供えそれは食べ物はそのまま、私共の命なんだ、ですから是はもう今食べ物とか、衣類とかお金とかだけではありません、やはり私共が生きて行く上に必ずそれが必要であると言うものは全てが、私共の命なんです。だからそれを奉仕する、それを捧げる事はそのまま命を捧げる事になる。本当に我が身は我が身ならずと言う例えばその訳をです、私共が分からせて頂いてその事がなされる時に、お供えならお供えの言うなら意義と言うものが、ハッキリ分からせて頂いて出来る事になる事に成る。
 成程お賽銭十円のお供えさせて頂くでもです、自分の命を奉るそれを信心のない人達は、そう言う事にはもうさらさら使おうともしない。そこに親のある子と無い子程の違いが必ず出てくる、今日はそう言う事を頂いて頂きたい。我が身は我が身ならず皆神と皇上との身と思い知れよ、皇上と言うのを今日は教祖様教祖の神それに帰依を申し上げると言う事は、いわゆる身も心も教祖様にお任せしたと言う時にはもう捧げた時なんです、だからおかげを受けるのですよね。 
  どうぞ。